東京地方裁判所 昭和45年(刑わ)1272号 判決
被告人 大野重次郎
大二・一・四生 団体役員
主文
被告人を懲役一年六月に処する。
この裁判確定の日から三年間右刑の執行を猶予する。
理由
(罪となるべき事実)
被告人は昭和一六年軍に召集され、終戦後シベリヤにおける四年間の抑留生活をへて昭和二四年一〇月帰還し、知人を頼つて福島県において菓子卸の手伝い、炭運搬の手伝いなどをし、同地で妻キヨと結婚し、長男、次男の二児をもうけたが、膵臓病、肋骨骨折後の神経痛など、とかく病弱であつたうえに生活苦に悩み、昭和三一年末に上京して東京都内板橋区内にしばらく住み妻とともに空箱回収業を始めてみたものの病弱で十分な働きが出来ないのと生活苦のため昭和三三年八月やむなくこれも廃業し、そのころ都内中野区に移住して妻に内職の袋はりをさせ、自らもその手伝いをしてみたが、いくはくの収入にもならず、幼ない二児を抱えて極度の窮乏した生活状態となつていたので、昭和三三年一〇月二四日から東京都中野区中野四丁目八番一号、中野区福祉事務所から生活保護法にもとずく保護を受けるにいたつたのであるが、その後も自分の健康状態がよくないうえに昭和三九年一月には胃の切除手術を受けたことも加わり、軽作業のほかは働きが思うようにできないので、保護開始以来昭和四二年五月までは家族全員の生活につき、同年六月から昭和四五年一月までは長男を世帯分離してそのほかの家族の生活につき、それぞれ引き続き保護を受けてきた者であるが、妻キヨが、子供らの生長にともない昭和三五年一一月から東京都中央区日本橋本石町四丁目二番地、第一整備株式会社にパートタイムの清掃係として当初は朝勤で、後には朝勤および夜勤で勤務することになり、別紙一覧表一記載のとおりの収入を得るにいたつたところ、昭和三九年一月二二日妻の収入として、真実の月平均収入額一四、五五五円を同福祉事務所所長に届け出たものの、保護基準に定める額だけでは生活が苦しいうえに、将来の自立更生に幾分かでも備えたいとの考えから真実の収入額をかくし、あるいはいつわつて、本来ならば支給を受けることのできない金額をも含めた保護費の支給を受け続けようと企て、生活保護法六一条により収入の変動があつた場合には保護の実施機関または前記福祉事務所長にすみやかに収入の届出をなすべき義務があるのに、昭和三九年一二月分から昭和四二年六月分までの保護費については、同所長が妻の収入額が前記の届出にかかる月額一四、五五五円であると誤信しているのに乗じて前記届出の後二回にわたり前記金額よりも少額の虚偽の収入届出をしたほかにはことさらに収入の届出をなさず、同年七月分の保護費については、昭和四二年六月一〇日、同年五月分の妻の収入月額が一〇、四〇五円である旨、過少の収入申告書を担当の社会福祉主事を介して同所長に提出してその旨同所長を誤信させ、同年八月分から昭和四五年一月分までの保護費については、同所長が妻の収入額が前記の届出にかかる月額一〇、四〇五円であると誤信しているのに乗じ、前記のように収入届出の義務があるのにことさらに収入の届出をなさず、これにより同所長をして、昭和三九年一一月ごろから昭和四四年一二月ごろまでの各月の妻の収入がそれぞれ前記の各金額であり、この収入額を基礎とし保護基準に照せば、被告人がそれぞれ翌月分の保護費として別紙一覧表二の受給額欄記載の金額の支給を受けるべき実情にあるものと誤信させ、よつて同表記載のとおり、昭和三九年一二月二六日から昭和四四年一二月二六日までの間前後六一回にわたり、昭和三九年一二月分保護費の一部追給および昭和四〇年一月から昭和四五年一月分までの保護費(生活、住宅、教育の各扶助費)としてそれぞれ同表受給額欄記載の金額を、いずれも同区野方五丁目三一番地所在の武蔵野信用金庫西武支店に開設された被告人名義の普通預金口座に振替金入金せしめ、前記妻の真実の収入を基礎にすれば正当に支給を受けうべき金額との差額(同表騙取額記載の金額)合計一、〇〇二、二八九円を騙取したものである。
(証拠の標目)(略)
(弁護人らの主張に対する判断)
弁護人らは次のとおり主張している。
一、本件のような不正の手段で保護を受けた行為については生活保護法八五条により刑事罰が定められており、これは刑法二四六条の特別規定と解すべきであるから、本件の不正受給行為には詐欺罪の規定は適用されない。
すなわち、戦前の救護法および母子保護法にも詐欺その他不正の手段により保護を受けた行為に対して刑事罰の定めがあり、当時においても、同法に関する犯罪については情状酌量の余地が大きいのでたとえ詐欺罪に該当する場合でも特に刑を軽くし、専ら右の罰則のみが適用され、刑法の詐欺罪の規定は適用されないという行政解釈が行なわれてきたのであり、また新憲法下の生活保護法は憲法二五条において国民の健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を保障した精神を具体化したものであり、憲法の精神から考えても生活保護法が戦前の救貧法時代よりも被保護者に重罰をもつてのぞんでいるとは考えられない。これらの沿革と憲法の生存権保障の精神からして、被告人の本件不正受給行為には刑法の詐欺罪の適用がないと解すべきである。
もつとも生活保護法八五条但書には「刑法に正条があるときは刑法による」との規定があるが、これは不正受給に際して行つた不正手段が国家的、社会的法益に対する罪にふれる場合があることを予想した規定であり、刑法の詐欺罪のような個人的法益に対する罪は右の但書に含まれないものである。
二、詐欺罪の保護法益は個人的財産的法益であつて国家的、社会的法益ではない。
被告人の本件不正受給行為は、収入の一部を届出なかつたという生活保護行政の適正妥当な運営に対して障害を与えた行為であつて、国家的法益であり、詐欺罪の保護法益である個人的法益ではない。したがつて、被告人の本件不正受給行為は詐欺罪の定型にあてはまらないのであり、詐欺罪を構成しない。
また生活保護費の不正受給は、保護の要件を全くもたない者が保護費を騙取する目的のもとに不正な手段を弄したというような悪質な場合は別として、被告人のように、初め適法に保護を受けるにいたつた者が途中から一部の収入の届出をしたかつたという場合には詐欺罪としてではなく、生活保護行政運用に対する違反行為として処罰すれば足りるのであり、やはり詐欺罪には当らない。
三、被告人の本件不正受給行為が詐欺罪とされるのは、そのほとんどが被告人に収入の届出義務があるのにそれをしなかつたという不作為による欺罔行為があつたことを前提としてのことである。
そして、収入の届出義務の法律上の根拠は生活保護法六一条であるとされている。
しかし、同法六一条は訓示規定であり、同条に定める収入の届出義務は道義的義務であつて、法律上の義務ではない。このことは行政解釈においても、「単なる訓示規定とでも称すべきであり、この違反に対して直ちに制裁を行う趣旨ではない」とされていること、また同法二五条二項、二八条、二九条により保護の実施機関は被保護者の状況を調査、把握すべき義務があり、この点について行政解釈においても保護の実施機関に第一義的な被保護者の状況調査と把握の義務があり、被保護者の届出義務はそれに協力するという補助的副次的義務であると解されていることからも裏付けられる。
四、被告人に対して収入の金額を届け出ることを期待することは不可能であつたから、被告人の本件不正受給行為は、他に適法な行為を期待すべき可能性がないか、または可罰的違法性のないものであり、刑事責任を追求することはできない。
すなわち、被告人は軍隊生活と抑留生活により八年間も自己の生活を国にささげ帰還後もシベリヤ帰りという烙印をおされて就職の道をとざされ、悪条件の仕事を続けているうちに、無理が重なつて健康を害し、病弱な妻と二人の子を抱えて、生活保護を受ける身となつたが生活保護法に基づく保護費は余りに低く、保護費中の食費だけでは、麦を主食にした極度の粗食にしても月のうち二〇日程度しか家族の食費をまかなうことができず、親の食事をさいても育ち盛りの子供らに食事をさせ、あるいは妻が働きに出るようになつてからは妻にも優先して食べさせるというようなことから、被告人の栄養摂取は一層不充分になり、健康の回復どころか健康の維持さえ困難な状況となつて、健康の回復が得られないために働くこともできず、また食費の不足を補うために他の費用を回したり隣人、親戚との交際もやむなく疎遠にしたり、学童の子供らにも粗末な衣服や学用品の不足のためにみじめな思いをさせたりしてきたのであり、被告人の生活状態は健康で文化的な最低限度の生活に価しない悲惨なものであつた。このような生活状態では被告人の自立更生は思いもよらないことであり、被告人は、一日も早くこのような惨状を脱して、自立更生をしたいと考えて、収入の一部を届け出なかつたのであり、一刻も早く自立更生を願い、二度と生活保護受給者の悲惨さを味わいたくないためにやむを得ず届出をしなかつたのであつて、被告人の生活の実情からみれば、被告人の本件不正受給の行為は、適法行為の期待可能性がないか可罰的違法性のないものである。
五、本件の刑事手続は警察力の不当な介入により開始された。
生活保護行政は、生活水準の低い人々に対し、その生存を保障し、自立を促進していくことを第一義とすべきであり、この趣旨に基き不正受給の場合にも、行政指導を優先させるべきである。生活保護法にも行政指導を優先させるべき旨の規定がおかれている。生活保護法七八条により行政当局の返還命令が発せられたのに拘らずこれに応じないというような場合に始めて警察力の介入による司法処分が行なわれるべきである。
しかるに本件においては、被告人が折角就職の見通しをつけ、保護辞退の手続をしたのに拘らず、何ら返還命令などの行政上の処置がとられないうちに、しかも行政当局の告発もなく、警察力を介入し、突然被告人を逮捕のうえ刑事手続を開始したものであり、警察力が介入した意図は、逮捕、起訴という衝撃的なやり方により保護世帯や保護を希望する要保護世帯を恫喝して、保護行政を遂行する上での費用の節約をはかるとともに、行政当局の頭越しに警察、検察力を発動することにより行政当局をもその方向に追い立てるという政治的な目的にあつたものである。
(当裁判所の判断)
弁護人らの主張について順次検討を加える。
一、主張の一について
不正の手段を用いて保護を受ける行為として考えられるものはほとんどが外形上刑法の詐欺罪に該当する行為であると思われるので、このような行為を生活保護法八五条但書により刑法の詐欺罪の規定を優先して適用し、処罰することになれば、実際上同条本文の罰則が適用される事例はごく少なく、同条本文の罰則を設けた意義がうすれることは否定できないし、また不正受給行為はごく例外の悪質な事犯を除けば、ほとんどが貧困の余り犯されるものであるうえに不正受給の額もそれほど多額にはならない場合が多いと思われ、情状酌量の余地が多いであろうから、「不正受給行為が外形上刑法の詐欺罪に該当する場合でも、生活保護法の右罰則によつて特に軽く処罰し、刑法の詐欺罪の規定の適用が排除される」という見解には説得力に富むものがあり傾聴すべきものがあるけれども、生活保護法八五条但書には「刑法に正条があるときは刑法による」旨を明文で規定しているのであり、もし不正受給行為について刑法の詐欺罪の適用を排除するのであれば、不正受給行為の大部分が外形上刑法の詐欺罪に該当することが予測される以上、同条但書においては特に刑法の詐欺罪の適用を排除する趣旨を明文にうたつた筈であり、そのようなことわり書きがない以上、不正受給行為が刑法の詐欺罪の構成要件に該当する場合には同条但書により刑法の詐欺罪に関する二四六条の規定が優先して適用されるべきものと解するほかはない。
弁護人ら主張の如く、前記法条の但書により刑法の規定によつて処罰される罪が国家的、社会的法益に限られるものと解すべき必然的な理由は見出せない。
また、不正受給行為のうち、保護要件を欠く者が積極的、計画的に不正の手段を用いて保護を受けたという悪質な事犯と、初め適法に保護を受け始めた者が途中から収入の一部の届出を怠り不正の保護を受けたという本件のような場合とを区別し、前者には刑法の詐欺罪の規定の適用があろうとも、後者にはその適用がないとの見解も、犯罪の情状として両者に十分の区別をなすべき意味においては大いに傾聴すべきであるが、法律上そのように解すべき合理的な理由を見出せない。
二、主張の二について
刑法の詐欺罪の保護法益は個人的、財産的法益を主眼とするものであり、国家的、社会的法益を主眼とするものではないと解すべきことは弁護人ら主張のとおりである。
しかし、不正の手段によつて保護の実施機関等を欺罔し、保護費を受給する行為は、一面において、生活保護行政の適正な運営を阻害するという国家の行政作用に対する侵害を結果すると同時に、他面において欺罔手段により保護の実施機関等から財産上の給付を受け(生活保護は必ずしも財産上の給付のみには限らないであろうがその大部分は金銭、生活必需品等の財産上の給付であることは否定できない。)これにより保護の実施機関等に財産の減少を生じさせて、それと引換えに受給者が財産上不法の利得をし、財産権の侵害を結果するという面があることを否定できない。そして後者の側面においては、たとえその財産権の窮極の主体が国家または地方公共団体であつたとしても、その財産権は刑法の詐欺罪の保護法益となりうるものであり、不正受給行為が刑法の詐欺罪の対象となりうることを否めないものと解する。
各種の税法における逋脱事犯等との対比において、保護費の不正受給行為が刑法の詐欺罪の対象とはならないと主張するけれども、税の逋脱事犯等は国家や地方公共団体等の徴収権行使という行政作用に対する侵害が主であり、もとよりこれに伴なう財産権の侵害を考慮できなくはないにしても、それは徴収すべきものが徴収されないという消極的なものであるのに対し、保護費の不正受給の場合には、その行為に財産権の侵害を主張とする側面があることは前述のとおりであるばかりか、財産権の侵害も、積極財産の減少という積極的なものであつて、彼此同列には論じられない。
三、主張の三について
次に生活保護法六一条の届出義務は道義的、訓示的義務であり、法律上の義務ではないと主張するのであるけれども、確かに弁護人ら主張のように、保護の実施機関は、生活保護法により被保護者の生活、資産、収入等の状況を調査し把握すべき職責とその権限とを与えられており第一義的義務を負つているものであるし、また同法六一条の届出義務を怠つたからといつて、そのことをとらえて直ちに処罰することはないという意味では同法六一条は訓示的といえないことはない。
しかし、保護の実施機関が職権により被保護者の状況を調査、把握するとしてもそれだけでは被保護者の状況を適確に把握することが困難であるし、なお事柄が生活困窮者に対する保護の問題にかかわり、保護の実施機関が職権調査を積極的に活用するときは被保護者の社会的信用や名誉を損じ、あるいは職場などにおける就労等にも悪影響を及ぼして自立を阻害するおそれもあるので、保護の実施機関の職権調査はできるだけ手控えるということにならざるを得ない面があり、証人野島保子、同白沢克彦の当公判廷における各供述によれば、現実の運用においても、職権調査は被保護者から容易に届出がなされないとか、届出に不審がもたれる場合に行つているにすぎない実情にあることが認められるのであり、このような実情をも考慮すれば、被保護者の届出は、保護の実施機関の行なう調査を補充し、これと並行して的確な状況の把握に資するものであつて、適正な保護の実施のために欠かせないものである。
同法六一条の被保護者の届出義務は以上の意義において被保護者に課せられたものであり、単に道義的、訓示的な意味の義務ではなく法律上の義務と解すべきものである。
したがつて、保護の実施機関が被保護者の収入状態を過少に誤認しているのに乗じ、届出義務に違反して敢て収入の届出をなさず、よつて不正な額の保護費を受給する場合には、収入の届出をしないという不作為が詐欺罪における欺罔行為となりうるものであり、不作為による詐欺罪が成立することは明らかである。
四、主張の四について
取調にかかる各証拠によれば、昭和三六年以降厚生行政長期計画基本構想に準拠し生活保護基準が漸次増額されてきたとはいえ、消費物価の上昇、賃金水準の上昇の影響により生活保護受給者の生活状態が依然として苦しく、生活保護法がその目的の一つとして掲げる生活困窮者の自立更生が保護基準に定める保護では容易でない実情にあることが認められる。もとより生活保護法にもとづく保護は同法に明定してあるとおり生活困窮者に対し、その必要を満たすに十分で、かつこれをこえないものであることが必要とされるので、保護受給者の生活が一般の人々に比べて苦しいものにならざるを得ないけれども、これまでの保護基準による保護が、それが憲法二五条の要請に反するとまではいえないにしても保護受給者にとつてかなりきびしいものであり、基準の引上げが望ましいことは最近においても公的機関によりその要望がなされ、また保護行政にたづさわる者のうちにも保護基準が低く、自立助長にはことのほか不十分なことを訴える声があること等よりして十分に窺い知ることができる。
しかして被告人がその経歴、家族の状況、自己および家族の健康状態、職業歴、生活保護を受けるにいたつた事情等に際し厳しい生活状態のもとで物心両面にわたる幾多の辛苦をなめてきたことは十分にこれを諒解することができ、被告人が判示の如く、生活苦からのがれ、早期に自立更生をはかりたいという心情も人間自然の情として理解するにやぶさかではない。
しかしながら、生活保護により生活している者は、ひとり被告人だけではないのであり、世間には被告人と同様の生活苦にあえいできた者は数多く存在しているのである。このような人々のほとんどが収入の届出をなし得なかつたという事情があるならば、被告人も収入の届出をすることを期待できなかつたとみることができるであろうが、生活保護受給者のほとんどが収入の届出をなし得なかつたものとはとうてい考えられないところであつて、被告人が困窮した状態にあつたからといつて、法律に定められた収入の届出をなし得なかつたものとは認められない。
生活保護は無差別、平等にかつ必要に応じて不足分を満たし、その限度をこえないように行われるべきことが生活保護法に定められている。もとより保護の基準が引き上げられることにより保護受給者の生活苦を緩和し、自立更生を容易ならしめるべきことが望まれるけれども、それだからといつて、保護受給者の一部が真実の収入の届出をしないことによりとび抜けて不正な額の保護費を受給するのを容認し、あるいは放任するときは無差別、平等、最低限度の生活保障を定めた生活保護法の精神にもとるのである。乏しきことは憂うべきであるが、等しからざることもまた憂うべきことである。そのうえ不正受給は国の保護行政に対する国民の信頼を失なわせるとともに生活保護受給者に対する一般国民の誤解を招き、生活苦を訴え保護基準の改善を望むまじめな生活保護受給者ないしは生活困窮者の叫びに水をさす結果ともなりかねないであろう。
このような事情を考えれば、被告人が収入の一部をことさらに届け出ず、あるいは虚偽の収入の届出をして判示のように不正に保護費を受給した行為は、その動機が情状として十分酌まれるべきことは格別として、他に適法な行為を期待できなかつたとか、可罰的違法性がないとはいえない。
五、主張の五について
生活保護の不正受給の事実が判明した場合には、現に保護が継続して行われているときでも、あるいはまた保護の打切りがなされた後でも、保護行政上の措置を優位させ、当該の実施機関が受給者に対して不正に受給した保護費等の返還を命じる等の行政上の措置を要すると判断するかどうかまた刑事上の処分を要すると判断するかどうかを先ず当該保護の実施機関に判断させ、その意思をできるだけ尊重して、しかる後に刑事上の手続を開始するという運用は、事柄が生活困窮者の生活にからむ犯罪であり慎重な配慮を要することと、このような運用が生活保護行政の目的にもかなうと考えられることからして、妥当な運用であると考えられる。
ところで、本件被告人の不正受給行為については、これが被告人の保護を実施していた中野区福祉事務所に発覚し、間もなく被告人から同事務所長に保護辞退届を提出したのであるが保護実施機関から受給にかかる保護費の返還を命じる等の行政上の措置をするいとまもなく、また同事務所には何らの連絡もなく、被告人の逮捕が行なわれ、刑事手続が開始されたことが前記証人野島保子、同白沢克彦および被告人の当公判廷における各供述によつて認められるのであり、本件の刑事手続の開始にあたつては以上の運用上の配慮にかけた点があつたことは否定できない。
しかしながら、前もつて、行政上の指導や措置をへるのをまたないで刑事手続が開始されたとしてもそのことから直ちに刑事手続が違法となるものではない。また弁護人ら主張のような刑事手続開始の目的があつたことを認める資料はないが、かりにそのような動機目的が潜在していたとしても、事案の内容が刑事上の処分に委ねる価値のないことが明白であるというような特別の場合のほかは刑事手続を開始し、起訴手続をしたことが訴訟手続上の権利濫用になることはあり得ないのである。
しかして、本件においては前述のとおり、被告人の不正受給行為は違法なものであり刑事上の処分に委ねる価値がある場合であるから、刑事手続の開始が違法であるとか、起訴手続が訴訟上の権利を濫用してなされたもので無効であるとかいうことはできない。
よつて、弁護人らの主張はいずれも採用できない。
(法令の適用)
被告人の判示所為は包括して刑法二四六条第一項に該当するところ、本件犯罪の情状については、取調にかかる証拠によれば、被告人の保護を担当していた社会福祉主事において頻繁に収入の届出をなすよう被告人に指導してきたのに拘らず被告人がほとんどそれに従わず、時として、被告人の側において開き直つた態度もあつたことが窺われるのであり、この点は遺憾な態度と評さざるを得ないけれども、すでに述べたとおり、被告人が逼迫した状態のもとで苦しい生活を続け、その生活苦から脱して自立したい、そのための備えもしたいと念願したことが本件犯行の動機のなかに大きな比重を占めていることは疑いないのであり、また本件の不正受給の期間が長く、金額も少くはないけれども、すでに行政上の返還命令が発せられて今後長期間にわたりその返還義務を負うことになつていること、さらに本件の刑事手続が開始されたことが契機となり、当時内定していた就職先も失なつて社会的にも相当の制裁を受けたに等しい結果となつているので、以上の情状のほか被告人の年令、家族の状況等諸般の情状をも考慮し、所定の刑期範囲内において被告人を懲役一年六月に処し、同法二五条一項によりこの裁判確定の日から三年間右刑の執行を猶予し、訴訟費用は被告人が貧困のため納付できないと認めるので刑事訴訟法一八一条一項但書によりこれを負担させないこととして主文のとおり判決する。
(別紙一覧表略)